丸9年
闘病と乱闘 / 2025.03.05
あれ、もしかして、今日は救急車で運ばれた日…?
はたと気付いた。もしかしてもなにも、その日だ。自宅と同じ区内にある大きな病院から、もっと大きな本院にサイレン鳴らしながら運ばれた、あの日だ。そこから怒涛の日々が始まった。私は何もよく分かっておらず、口を開けば「家に帰りたい」とぶつくさ言っていた日々が。
今思い返してみても、実に暢気だった。
自分に死神がぐんぐん近づいてるなんて思ってもみなかった。私は自分が死ぬ可能性について、全く考えていなかったし頭を過ったこともなかったのだ、入院してから一度も。あんなに物騒な検査をしたのに、あんなに多くの医療従事者が関わっていたのに。CCUの個室に入っていたにも関わらず。
身体は当然ながら悲鳴を上げ続け、自分の感覚としても結構ギリギリの辛さだとは思っていたけれど、私は驚くほど暢気で無自覚だった。
完全なるベッド上安静を言い渡されていた日々に、どうやったら早く帰れるのかを考えていた。
あの時一番早く帰る方法はと言えば「命の灯を消す」だっただろう。
それなのに、そんな状況だというのに、私は思っていた。早く帰りたい、と。
その切実さは、無自覚な自分を通して世に放たれていたけれど、死への恐怖・抗いを細胞が叫んでいたからなのかもしれない。私は何も知らなかったのだ、自分の両親が呼ばれ「今日明日の命になる、覚悟をしてくれ」などと言われていたことなんて。どんなに危険な状態だったかなんて。
恐らく発症したであろう10年、11年前。
私は素晴らしい日々を過ごしていた。お金は無く、安定もしておらず、生活費を捻出するのには綱渡りだったけど実に充実した心を潤わせるような日常を生きていた。そして、だからこそ浮かれていた。とても浮かれていた。なんならちょっと調子にさえ乗っていた。結果、私は伸びた鼻を綺麗に勢いよく圧し折られたのだ。まぁ、見事に真っ二つ。
2016年3月を境に、この肉体が突き進む日常は大きく変化してしまった。
私は今も圧し折られた鼻を圧し折られたまま、プラプラさせながら生きている。
世界は無慈悲だ。しかし相も変わらず暢気で世界の厳しさに無自覚を決め込み、生きていく。
そうやって生きると決めたから。
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